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陸遜



 

 りくそん (183~245)
 字は伯言。父陸康は孫策に殺される。呉郡呉県の人。親の敵の孫策の娘を妻とする。当初は後方にて賊の退治などにあたっていたが、関羽攻めのとき抜擢された。呂蒙死後はその後継者となり蜀の劉備の率いる軍勢を打破した。その後も荊州方面の守りで活躍した。244年に丞相となり、孫家のお家騒動に巻き込まれ最後は孫権に問責され、陸遜は憤り死亡した。
 陸遜は名門の出身である。にもかかわらず孫権に忠実に仕えたことは彼がいかにすばらしい人物であったかの証左である。
 陸遜は当時の揚州の名門の陸家の出身であり、本来孫一族とは微妙な位置に立っていた。それは孫策や孫権が呉郡や会稽郡の名士層を一時的に弾圧したからである。これは孫呉政権の矛盾として存在しつづけていた。それゆえ陸遜は孫家のために積極的に働かなくてもよかったはずである。しかし彼は誠実に孫権のために仕えた。これはすばらしいことである。
 ただし陸遜個人はともかくとして、呉の名士層全体を見ると、孫権との関係は実に微妙そのものである。魏と孫権が結ぶことがあったが、それは同盟というよりは、臣従である。実質的にはともかく、孫権は魏に形式的には従属しているのである。これはなぜだろうか? 第一には魏と蜀同時に敵に回すのは呉にとって不利であるという計算であろう。しかし第二に考えるに、呉の臣は本気で曹操への臣従を望んでいたのではないかということである。孫策や孫権が取り立てた武人はともかく、名士層はどうにも魏が擁する名ばかりの「漢」への臣従を望んでいたのではないかという気がしてならない。孫権が関羽や劉備を攻めたのは(または攻めさせた)のは自らの領土欲もあるだろうが、どちらかといえば家臣を統制するためではなかったのだろうか。だとすれば呉に荊州攻めを打診した魏の深慮遠謀もすごいし、また臣従という苦渋の決断で家臣を統御し、結果荊州を得た孫権も相当な政治力であると評価できる。
 陸遜の荊州や夷陵での戦いで一度は影で呂蒙の謀略に参加し、一方では劉備の侵攻をふせいだその手腕は立派といえよう。現場指揮官としてすばらしいと思うのである。名士層にこのような傑物がいたことは、まさに孫権にとっても幸福だったといえる。夷陵の戦いの当初、陸遜を呉の諸将はあまり評価していなかったといわれる。孫権の抜擢は確かにすばらしいものであった。それに陸遜はすでに山越の平定などで実績を上げている。にもかかわらず諸将の評価は低いという。私はむしろ「評価したくなかった」のではないかと推測する。夷陵の戦いの呉軍の参戦武将は陸遜はともかくとしてあとは朱然、潘璋、宋憲、徐盛など名士層ではない武人ばかりである。孫呉政権の性質上、揚州の土着名士と武人の間にある種の派閥争いがあったのは紛れもない事実だからである。劉備が諸葛亮を登用するのを嫌がった関羽張飛のような心境だったのかもしれない。
 派閥争いはともかくとして、そのようないろいろな対立のあったものをひきいて劉備を破った陸遜はなおさらすばらしい手腕があったといえよう。その統率力は見事というよりほかない。また石亭の戦いでは南下してくる曹休軍を打ち破っている。
 陸遜は内政面においてもすぐれた手腕を発揮した。陸遜の憤死の原因となった孫権の後継者問題でも、陸遜は正統論を唱えた。死して家に財産は残さなかった。清貧である。彼は当時の一流の名士として立派に生きたといえよう。
 親の敵の一族のためにも彼は誠実に仕えたのだ。それは彼が名士として、人民を慰撫し、なるべく故郷の揚州に戦乱が及ぶのを避けようとしていたのかもしれない。いずれにせよ高いモラルの持ち主だったということができる。

                                                                
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